ビリー・シーン奏法を徹底研究する異色のベースプレイヤー・浅野聡さんに聞く
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あこがれのビリー・シーン、
その研究は生きることそのもの[その1]
高等専門学校に入るまでは音楽と無縁だった浅野聡さん。だが、ハードロックの世界では代表的なベースプレイヤーのビリー・シーンとの出会いで、その後の人生が大きく変わった。現在、ベースのミュージシャンとして、また、ビリー・シーン研究の第一人者として、そのテクニックや練習法を“ぢゃっく”というニックネームでWebなどに紹介。世界中の熱心なビリーファンとの交流の輪を広げている。
たが、現在に至るまでの社会生活の中で、音楽から離れざるを得ない時期もあったという。
ベースに初めて触れたのは16歳の高専時代
――きょうは、駿河堂マガジンのインタビューに貴重な時間をいただき、恐縮です。まず、プロフィールを拝見すると、ミュージシャン、それも“ベースプレイヤー”と書かれていますが、ファッションもヘアースタイルもごくふつうで、第一印象はあまりミュージシャンっぽくないですね(笑)。
浅野 ミュージシャンというのはおこがましいですが、ベースのレッスン講師をしています。風貌は昔から変わらないですね。そもそも、幼少期を振り返っても、父親はごく普通のサラリーマン、母親は専業主婦、妹も当時はとくに音楽に関心が深いわけでもなく、特別な家庭環境ではありませんでした。もっと言えば、当時は音楽を聴く環境も乏しく、テレビ以外はラジカセが1台あっただけで、八代亜紀や五木ひろしなどの演歌のカセットテープがあったぐらいです。
――子どもの英才教育の一環としてピアノなどの音楽教室に通わせる家庭もありますが、あまり音楽とは縁がなかった環境だったわけですね。
浅野 はい。音楽とは縁が薄かったです。中学に入って、ようやく友達から宮崎アニメのサウンドトラックや邦洋楽オムニバスなどのカセットテープを手に入れて聴いてはいましたが、部活はソフトテニス(軟式庭球)でしたし、中学時代までは楽器とも無縁でした。
――では、ミュージシャンになるきっかけとなったのはどんな由縁からですか。
浅野 それは15歳の時でした。理数系が比較的得意でしたので、中学を卒業後は香川県にある詫間電波工業高等専門学校(現・香川高専)の電子制御工学科に進学しました。その高専には友達のお兄さんが通っていて、その友達と文化祭を見に行ったんです。そのとき、はんてんやジャージという私服姿で学校に通う高専生が気楽そうで、ひと目で気に入りました。瀬戸内海が目の前なのも良かったですね。
――自由な校風が自分に合うと感じたのですね。
浅野 そうです。ロボット工学や情報工学のエンジニアに興味があったので、迷わずここに決めました。当時はちょうど本州と四国を結ぶ瀬戸大橋が開通した直後ぐらいでしたが、福山市(広島県)の実家から香川まで通うわけにはいかないので、親元を離れ、学生寮に入ることになりました。実はその寮生活の中でベースという楽器に初めて触れることになったのです。そのころは「イカ天(三宅裕司のいかすバンド天国)」などが火付け役となった80年代バンドブームの全盛期で、寮でもエレキギターなどの楽器を始める仲間も多く、どこの部屋の片隅にもギターが置いてありました。ギターではなくベースを始めたのは、たまたま最初に借りたのがベースだったからです。興味本位で寮仲間のベースを借りてはみたものの、まったく弾けませんでしたね。ただ、ブームが過ぎると友達は飽きてあまり弾かなくなり、いつでも借りて練習できる環境になりました。まずは、当時人気のあった日本のロックバンドの弾き方を練習しているうちに少しずつ弾けるようになり、面白くなっていきました。
衝撃が走ったビリー・シーンのビデオ
――それにしても、独学で練習してもなかなか上達するものではないと思いますが、もともと音楽の才能があったのでは?
浅野 いいえ、そんなことはありません。小中学校の通信簿も音楽はそんなに良くなかったですし、歌うことも大嫌いでした(笑)。ただ、独学で練習に没頭することになるキッカケはありました。ベースを始めてまもなく、クラスの友達から1本のビデオテープをもらったんです。「ベースをやるんだったら、このビデオ観てみ、すごいから」と。それがビリー・シーンとの出会いでした。
――ビリー・シーンとは?
浅野 ハードロックベースの世界では言わずと知れたレジェンド的存在のベースプレイヤーです。とにかくビデオを観てびっくりしました。それまでのベースのイメージとは何もかもが違うんです。とにかくすごい。衝撃が走りましたね。
――どんなビデオなんですか?
浅野 一昔前のビデオデッキで再生するVHSテープに収録されているものです。「ビリー・シーン イン ジャパン」というタイトルで、1988年にビリーがヤマハ主催のベース・クリニック(セミナー)のツアーで来日した時に密着したドキュメンタリー映像がメインで、ビリー本人による奏法解説もありました。これまで手本にしていたものとは別世界で茫然としたと同時に、とても興奮してワクワクしたのを覚えています。それまではピックを使って練習していたのですが、「この人のように弾けるようになりたい!」と決めて、ビデオを観た直後からピックはやめて、指弾きに変えました。ところが、真似をしようとしても、全くできない。指が動かないし、ビリーの雰囲気が全く出ないんです。それで反対にますますのめり込みました。このビデオは、幾度も幾度も文字通りテープが擦り切れるぐらいに観ましたね。とは言っても、寮にはテレビもビデオも持ち込めなかったので、長期休暇で実家に帰った時しか観られなかったのですが(笑)。
――あきらめないで研究に打ち込んだということですが、ビリー・シーンのどんなテクニックに感銘を受けたのですか。
浅野 最初に驚いたのは、スリーフィンガー・ピッキングです。実はこのビデオを観るまでは、ビリーの存在は知りませんでした。ビリーが世界のベーシストたちの憧れの的だったことは後で知りましたが、日本のロックバンドのベーシストとは全く違う。サウンドもフレーズもリズムも違う。弾き方も違うわけです。ベースで指弾きというと、右手の人差し指と中指の2本を使うのが普通なのですが、ビリーの場合は薬指を加えた3本を駆使して超高速で弾きまくるのです。まずは、このスタイルを徹底的に真似しようと思ったんですね。
寮生活のベースは青春そのもの
――ビリー・シーンの映像を観て、一般的なベースの弾き方とはまったく違う発見をしたわけですね。
浅野 ええ、最高のお手本でした。とはいっても、何をどうやって弾いているのか想像もつかないようなプレイばかりなのですが(笑)。とにかく、初めは全然指が動かない。授業中を含めて、何をしているときも指を動かすようにしていました。今思えば、高専時代は時間があればベースを触っていたように思います。抱えたまま眠ってしまうこともありましたし、ほかの何よりも青春そのものだったかもしれませんね。しかも、指先はピックのように固くないので、まずは、3本の指先を鍛えることから始めました。春休みや夏休みに実家に帰省した際、水道屋さんでアルバイトをしていたのですが、壁に水道管を通す穴を開ける作業で細い円筒状のコンクリート片が出るんです。それをポケットに入れて持ち歩いて、暇さえあれば指先の皮を痛めつけていました(笑)。ちなみに、そのアルバイト代で、生まれて初めて自分のベースを購入しました。フェルナンデス(FERNANDES)製のエントリーモデルではありましたが、海の色と同じようなブルーサンバーストというオリジナリティー溢れるボディーカラーで、一目で気に入りました。
――猛特訓の成果は?
浅野 高専3年生くらいからは、軽音楽愛好会に所属して、バンド活動も始めました。ラウドネス【(注=元レイジーの高崎晃と樋口宗孝が中心になって結成されたヘヴィメタルバンド、カタナミュージック。現在のメンバーは二井原実(ボーカル)、高崎晃(ギター)、山下昌良(ベース)、鈴木政行(ドラム)】のコピーバンドがメインでしたが、文化祭ではZARDとかCHAGE&ASKAとかF1のテーマとか・・・当時流行っていた楽曲も色々やったのを覚えています。ただ、ベースはビリー・シーンのスタイルにこだわって常にスリーフィンガーで弾いていたので、当時はリズムがばらけることもよくあったと思います(笑)。
――校風どおり高専時代は自由に楽しめましたか?
浅野 とにかく、ずっと学校の敷地内にある学生寮での生活でしたから、何かと制約はありました。例えば、夜22時以降は部屋の電源が切れてコンセントが使えなくなるとか(笑)。それでもみんな工夫して楽しく過ごしていました。香川は「うどん県」として讃岐うどんで有名ですが、寮の食事もうどんは安定の美味しさでした。三方を山に囲まれて一方が海という自然の要塞のような立地でしたが、裏のみかん山に少し登れば、瀬戸大橋まで一望できるのどかな環境でした。寮の部屋にはテレビを持ち込めなかったので世の中の情報もほとんど入らず、ベルリンの壁崩壊のニュースもずいぶん後に聞きました。逆に隔離されていたので、集中できたのかもしれません。
――高専時代に夢中でベースに取り組んだことで、ミュージシャンになったわけですから、ビリー・シーンのビデオが、その後の人生までを変えた?
浅野 結果的に現時点ではそういうことになりますが、まさか自分がベースを仕事にすることになろうとは夢にも思いませんでした。高専を卒業後は、愛知県の豊橋技術科学大学の3年次に編入して、大学院まで4年間通い、神戸の会社に就職しました。入社後はソフトウェアエンジニアとして勤務していました。
――最近では「働き方改革」などといって、残業を減らすように労働時間も厳しく制限されて余暇を楽しむ時間が増えているようですが、会社に入っても、変わらずベースと関われたのですか?
浅野 いいえ、社会人になってからは、ほとんどベースに触らなくなってしまいました。仕事は忙しくなる一方で、子供の障がいのこともあり、音楽と関わること自体が減っていきました。それでも、ソフトウェア開発エンジニアという仕事は好きでしたし、やりがいも感じていたのですが、実は、15年目ぐらいから仕事が上手くこなせなくなりました。頭が回らなくなり、単純なミスが増え、周囲に迷惑をかけるばかりで・・・。ついにはうつ状態と診断されて、休職することになりました。
――その状態ではベースを弾くどころではないですね。
浅野 そうですね。当時の病状は深刻な部類だったと思います。頭と体は常に鉛のように重く、全身が硬直して半狂乱になって叫ぶような発作が頻繁にあり、日常生活にも支障をきたしていました。自分は迷惑をかけるだけの存在で、この世にいないほうが良いのだと本気で思っていましたし、何を見聞きしても全く感情が動かなかったです。あれほど好きで夢中になっていたベースにもまったく興味がなくなっていました。
※あこがれのビリー・シーン、その研究は生きることそのもの[その2]は、こちら
インタビュー・文:福田 俊之
写真(人物):前田 政昭
〉関連情報
・リンクラウンジ:ビリー・シーン スタイル by ぢゃっく
・WEBマガジン「スタジオラグへおこしやす」コラム:
https://www.studiorag.com/blog/fushimiten/author/jack
・「ビリーシーンスタイル・ベースの探求」:
http://billysheehanstyle.blog.fc2.com/
・「ビリー・シーンのプレイスタイルの研究を始めて幾年月」:
http://www.mag2.com/m/0001632932.html
・YouTube「ビリー・シーン スタイル」:
https://www.youtube.com/user/pordoril
・Twitter:https://twitter.com/jack_billystyle
・Facebook:https://www.facebook.com/satoshi.asano.7923
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