東京五輪・パラリンピックが閉幕
呆れ返るネガティブな話題も噴出
新型コロナウイルスの厳しい感染爆発が続き、多くの国民の反対世論を押し切ってまで強行開催された東京五輪(オリンピック)と、その2週間後に開幕したパラリンピックも9月5日夜の閉会式でようやく幕を閉じた。コロナ下で前代未聞の「無観客開催」という異例の事態に加えて、真夏の炎天下や気候変動による大雨などの悪条件が重なる中でも懸命に戦い抜いた選手たちの活躍に、思わず目頭が熱くなったり、励まされた人も少なくないだろう。日本人選手のメダルラッシュもあっぱれだったが、国籍を問わずメダルを獲得した人も獲得できなかった人も罪のないすべてのアスリートの熱闘ぶりには心の底から拍手を送りたい。だが、矛盾だらけの大会は過去の五輪の華やかなムードのスポーツの祭典とはほど遠く、大会運営の面などでネガティブなニュースばかり強く印象づけられたのは残念でならない。
選手や大会関係者の無断外出、
未使用の医療用マスクなども大量廃棄
東京・晴海の選手村では、首都圏の医療ひっ迫の危機に直面しながらも大勢の医療ボランティアを確保して選手や出入りする委託業者など大会関係者の感染が広がらないようにPCR検査を強化したこともあり、クラスター(感染者集団)こそは発生しなかったとみられる。だが、パラリンピックの選手を中心に陽性者が続出したほか、屋外の競技会場などでは熱中症で救急搬送された患者も相次いだという。
連日最高気温が30度を超える灼熱の地獄のような蒸し暑さと、新型コロナの新規感染者数が過去最多を更新し続ける「緊急事態宣言」最中の強行突破では、熱中症やコロナ感染の懸念は開幕前からある程度予測ができた。ところが、酷暑による体調不良やコロナ以外で「想定外」の事故や不適切な事例が浮き彫りになってイメージダウンに拍車をかけてしまったことも残念に思う。
緊急事態宣言下の東京都民には不要不急の外出を控えるように要請されているが、選手と大会関係者も無断外出や選手村の集団での飲酒が禁止されているにもかかわらず、外国人選手たちが東京・六本木のバーで「酒を飲んでいる」と110番通報されたほか、国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長が帰国前に“銀座ブラ”しているという目撃情報もSNSなどで拡散された。
また、新型コロナ対策で選手村や競技会場の医務室などに配備するために用意していた医療用のマスクやガウン、消毒液などの医療用機材が使われないまま大量に廃棄されていたことが判明。その数は50枚入りのマスク660箱、ガウン3420枚、消毒液380本で、ざっと500万円にのぼるというから呆れ返るばかりだ。
選手村でトヨタの自動運転バスが接触事故も
さらに、選手村内を巡回するトヨタ自動車の自動運転バス「e-Palette(イーパレット)」と、視覚障害のある柔道競技に出場する予定だった北薗新光選手が接触する事故が起こった。事故は選手村にある信号機のない丁字路をバスが右折する際に発生。バスは事故にあった選手とは別の人の存在を検知し、横断歩道の前でいったん停止。その後、バスに搭乗するオペレーターが手動でバスを発進させたところ、歩いて横断歩道を渡ろうとした北園選手に接触した。北園選手には目立った外傷もなかったようだが、その後事故に遭遇したショックから体調不良を訴え、競技を棄権する最悪の事態となってしまった。
パラリンピック選手の輸送では、卓球会場の東京体育館のバス乗降場で、車いすの選手がバスのリフトで乗降する際、リフトをつるワイヤが切れて落下するという事故も起きた。多くの車両を提供した最高位スポンサーのトヨタはアスリートの「安全・安心」を最優先に掲げて、自動運転などの最先端技術を世界に向けてアピールする狙いだったが、オペレーターの判断ミスかバスの技術的な問題とも考えられる思わぬ事故があだ花となって東京五輪で傷ついたダメージは計り知れないだろう。
今でも思い出に残る1964年「東京五輪」のマラソン応援
ところで、今回の宴の後で浮かんでくるのはこのような情けない実例ばかりだが、私にとっては、やはり半世紀も過ぎた1964年秋の最初の東京オリンピックでの懐かしい思い出が忘れられない。そのときは12歳、都内の公立中学1年生だった。自宅から目と鼻の先には馬事公苑や駒沢競技場があるが、残念ながら我が家では観戦チケットを手に入れることができなかった。それでも30分ほど歩くとマラソンコースとなった甲州街道に出る。マラソン競技は閉幕の2、3日前の平日で、国立競技場をスタートしたのは昼過ぎだったと記憶するが、午前中に教室を抜け出して街道沿いに着くと、すでに日の丸の小旗を手にした大勢の人が歩道を埋め尽くしていた。
人垣をかき分けてのぞける場所を探すのに苦労したが、それでも猛スピードで駆け抜ける選手の姿を目の前にして、胸が熱くなるほどの衝撃が走ったことを覚えている。金メダルに輝いたのは、あとで「裸足の英雄」などと呼ばれたエチオピアのアベベ、2位は英国のヒートリー、そして3位は惜しくもゴール直前でヒートリーに抜かされた円谷選手だった。日本のマラソン界では初のメダルで、しかもこの大会での陸上競技唯一の日の丸掲揚が実現した。その後、円谷選手は自ら命を絶ち「悲劇のランナー」となってしまったが、沿道でのわずか数秒間の応援だったとはいえ、テレビ観戦とは違った感動と興奮がいつまでも心に刻まれた。
人の幸、不幸がいつ訪れるかはわからないものであるが、常に死を恐れ、なるべく遠ざかるように生きてきたおかげで、生まれ育った東京でのオリンピックという“饗宴”を2度も毒見することができた。だが、残念ながら今回は後味が悪すぎて冥土の土産にはなりそうもない。感染力が極めて強いとされるデルタ株などにも負けずに、もうしばらく健康で豊かな人生を送りたいものである。
ふく☆ぺん
駿河堂MaG編集部 編集顧問