秋〈Ⅰ〉
秋の信濃路の旅 八ヶ岳紀行
九月十日一行六名、3台の車に分乗して、八ヶ岳高原に向けて出発。
午前9時30分、中央高速道・釈迦堂パーキングエリアにて集合、第一回顔合せ終了。目的にそった人員配置にし、次は須玉ICを出た後、最初のコンビニで再集会を約する。
晴れの予報にもかかわらず、勝沼、甲府を通り、須玉で高速を降りる前に、撮りたかった南アルプスや前衛の山々は雲の中、残念。右手前方の八ヶ岳山塊も、この高度からでは薄雲で全容はうかがえず。カメラは一般道に入ってからに期待。
信濃路は、信濃にある道。信濃に通じる道。
「昔の夢のなつかしく たずね来たりし信濃路の 山よ小川よ また森よ
姿昔のままなれど 何故に彼の君 影も無し」
もう一世代前の戦前、戦中派にとっても、この地方はロマンチックな話が多い。古くは島崎藤村等の詩歌、堀辰雄の小説によって紹介される。八ヶ岳山麓富士見の旧高原療養所をめぐる悲恋、“月よりの使者”など映画ファンの涙をさそった、と記憶している。
東京で育った我々世代にとっても、信濃路は東海道同様、きわめて大事な存在。大きな役割を果たしてくれた。中学、高校時代、甲州街道、中央線を利用して八ヶ岳、霧ヶ峰、上高地へ。更に糸魚川経由で日本海へ。又、戸隠から信越に向った。信越線は上野から碓氷経由で軽井沢、進んで赤倉方面に。中央線側から信越線側への通路も多々。今日走る小海線沿いは、国鉄通過最高地点を経由、軽井沢、小諸方面に連なる。更に中央線の諏訪からも、中仙道経由で小諸に。
利用は、年代によって異なったが、中、高生、青春前期には、動植物などの観察、大学受験勉強、初歩の登山。次の青年から壮年では、燕、赤倉でのスキー、軽井沢でのゴルフなどが主目的に変る。
このエリアには、環境を生かしたリゾートホテルも多々。赤倉観光、軽井澤万平、鹿島の森ロッジ、上高地帝国ホテル、八ヶ岳高原ロッジは最もおすゝめ。
良い社交とロマンスを!
須玉通過後、交通は順調。但し、それは萌木の村到着まで。
この駐車場は、見事に各種ミニカー、軽自動車、大型バイクで占められていた。これ等の車種の変化も、今回、目を見張ったが、時代が変ったことを知らされた。
天気は上々、八ヶ岳南側の峨々たる山容もヴェールを完全に取り払った。沿道を飾るフジアザミの巨大な花。山地の風情。予定していたロック(飲食店)での昼食を中止し、すぐ上の純日本ソバの店で、早めのランチをすます。(そば処さと 高根町清里)
信濃では 月と仏と おらがそば 一茶(*)
*小林一茶の句ではないとする説あり。
そば時や月の信濃の善光寺 → 信濃では月と仏とおらが蕎麦
一茶を後世誰かがもじった?
続きは・・・
するがどう本舗にて、小冊子版『やすらぎの歳時記』
で、どうそ。
1937年生まれ。慶大経済学部卒、総合商社、大手石油会社などを経てフリージャーナリストとして独立。国際政治・経済問題から芸術文化、和菓子の研究まで豊富な知識と深い見識で執筆活動を続けている。