カナダでの「轆轤」初体験で目覚めた 我が”陶芸人生”
焼きもの作りの陶芸の世界では「土練り3年、轆轤6年」とも呼ぶそうだが、堅忍不抜の精神に耐えながら、その作品がいわゆる”売りもの”になるプロの陶芸職人は一握り。”自分探し”で長期滞在のカナダで日本人の陶芸家と出会い、それが縁で帰国後は20代後半に一念発起して陶芸の道をまっしぐら。今では陶芸教室のスタッフをつとめる傍ら、都内のデパートで初の「個展」を開くなど、独自のデザインセンスと創造力をもつ若手の陶芸家としても注目が集まる。そんな松本充央氏に陶芸で身を立てるまでの道のりと将来の目標などを聞いた。
東京の下町・日暮里生まれ
――日本の全国には佐賀県の有田焼や山口県の萩焼に石川県の九谷焼、それに関東でも栃木県の益子焼など、有名な陶器の産地が多くありますが、松本さんは、先祖代々から続いている窯元の出身ではないのですか。
松本 旅が好きなので、全国各地の有名な窯元にはよく行きますが、東京の下町の日暮里(荒川区)で生まれ育ったので、まったく縁がありません。もう13年も前に亡くなった父親も芸能関係の仕事だったので畑違いだし、私自身も少年期にはプラモデルの模型を作るのは大好きだったが、その当時は、まさか陶芸の世界で身を立てるようなことは考えたこともなかったですね。
――それなのに、夢にも思わなかった陶芸家の道を目指すことになったキッカケとは?
松本 高校を卒業してから父親の影響もあったのでしょうか、東京の市ヶ谷にある東京ビシュアルアーツ(旧東京写真専門学校)で、映画芸術の勉強を学びました。ただ、卒業後は専門学校であっせんしてくれた映画の配給会社などに就職せずに、生活のために飲食店でのアルバイトを続けていました。というのも、外国映画を鑑賞するのが好きで、ストーリーに出てくる海外での暮らしにあこがれて、大げさにいえば“日本脱出”を計画、外国に行って働いてみたいと思っていたからです。
――戦後間もない団塊の世代は、スケールが大きい欧米型の生活文化にあこがれてバックパッカーのような大陸を目指す若者たちが多かったようにも思えますが、それも日本の経済が豊かになるにつれて、海外に行く若者が少なくなったことも事実です。幼少の頃がバブル時代の松本さんの世代では自分探しを目的に海外の暮らしを夢見る若者は珍しいのではないですか。
松本 たしかにそうかもしれませんが、とにかく、海外に住んでみたいと考えてワーキングホリデーでカナダのモントリオールに行くことに決めたわけですが、当時で最低60万円相当の資金を持っていないと申請許可が下りなかったので一生懸命にアルバイトで稼ぎました。もちろん、ある程度の語学も身につけなければなりませんが、たまたま、バイト先のレストランには、外国人のお客さんが多かったので、日常会話ぐらいは話せるようになったので助かりました。
カナダ在住の日本人陶芸家との出会い
――それでカナダの滞在期間中に陶芸家の道を目指すことになったのですか。
松本 いやいや、カナダには3年半、滞在して、毎日が新しい発見ばかりでしたが、働いていたのはモントリオールのレストランで、陶芸とはまったくの無縁でした。しかし、その店のシェフが日本人で、和太鼓が趣味。その延長線上で、現地で暮らす日本人同士の交流会があり、ある日、その仲間たちで当時でも20年以上もカナダに住んでいる陶芸家から「興味があれば、遊びに来なさい」と招かれたのです。そのとき、アトリエで初めて轆轤というものを挽かせてもらったのですが、粘土をもつ手のひらと指に伝わるその感動は、言葉に表せないほど衝撃的でしたね。たしか、ビアカップを作らせてもらったと思いますが、その陶芸家からは「センスがあるから、もっとやってみれば」と、誉め言葉までもらったのは忘れません。
――なるほど、カナダ在住の日本人陶芸家との出会いが、松本さんのその後の人生を左右したわけですね。
松本 はい、父親の危篤で東京に戻ってからは、「横浜いずみ陶芸学院」(神奈川県横浜市)という専門学校に入学して、基礎から陶芸の技術を勉強しました。正直なところ、入学当時は将来の明確な目標もなく、ただ漠然としていましたが、釉薬や窯焚きを学んだ研究生の1年を含めた3年間、厳しくも親切に指導してくださった先生方にも恵まれたおかげで、今日も陶芸人生を続けられるようになり、恩師には感謝しています。
陶芸家の世界は「土練り3年、轆轤6年」
――「首振り3年、ころ8年」は尺八の世界、すし職人も卵焼きが上手になるまで10年もかかるそうですね。少し聞きにくいことですが、趣味や道楽で始めたのならともかく、松本さんのようなプロの陶芸家は、作品が“売りもの”にならなければ、生計を立てることもできないと思います。
松本 はい、その通りです。陶芸家の世界でも「土練り3年、轆轤6年」ともいわれています。独立しても、それだけで生活できるようになるまでには、焼きもの作りでも失敗から学ぶなどのキャリアを積み重ねなければなりません。私の場合は、現在、埼玉県の朝霞市にある「丸沼陶芸倶楽部」という陶芸教室に勤務しています。週3日、窯焚き担当などスタッフとして受講者をサポートしていますが、講習のない日はそこのアトリエで自分の作品を作っています。
――陶芸に打ち込む過程の中で、こだわりや感動する瞬間は?
松本 私が焼きものづくりでとくにこだわっているのは、粘土です。土練りをすることで粘土を理想の堅さに保ち、また粘土の中の気泡を取り除いて粘土の状態を整えますが、粘土そのものにも相性があり、私は京都と奈良の境にある奈良山丘陵の粘土を主に使っています。それに、感動的な瞬間は、やはり、18時間もかけて焼き上がった陶器を窯から取り出す、窯出しですね。私が勤めているアトリエでは、1か月半に1回ほど灯油で窯を焚きますが、窯の前から離れずにほぼ徹夜で火力調整をします。そんな「寝ずの番」の後での窯出しのときは本当に楽しみです。ただ、陶器は生き物と同じで、すべて思いどおりには焼き上がらない。1回の窯焚きで、形が同じような湯呑み茶碗ならば、300個ぐらいは一同に焼き上がりますが、その半分程度は使い物にならない欠品です。しかも、さらに、売りものになる商品として満足できるのは2、3割です。それでも、なかには、想定以上の仕上がりで素晴らしいものもあり、そんな逸品の焼きものに遭遇したときには、眠気も一気にすっ飛んでワクワクして楽しみも倍増します(笑)。
東京・新宿の京王百貨店で初の「個展」
――ところで、今年の春には、東京・新宿の京王百貨店で「個展」を開きましたね。
松本 これまでも、デパートやギャラリーなど多くの展示会にグループで出展していますが、私だけのいわゆる「個展」は初めてです。専門学校で陶芸を学んでから足掛け10年、「不惑」の年になる前に、そのタイミングで個展を開くことが出来たのも陶芸人生の一つの区切りで、通過点でもあり、また、新たな目標に向かうためのスタートにもなりました。
――最後に、次のステップに向かうための新たな目標を教えてください。
松本 まずは、みなさんにもっとたくさん買ってもらえるようなよりいい焼きものを作れるように、日々がんばらなくてはいけないと思っています。そして、どちらかといえば、私が作るのは酒器や洋食器類を得意としているので、飲食店で気に入ってもらえるオーナーがいれば、料理皿から飲み物のコップ、さらに、店内の装飾品まで特注の陶器をトータルで使っていただけるようなお店が増えたらいいな、というのが理想です。それに、国内に限らず広く海外でも個展を開いて外国人にも自作の陶芸の魅力をアピールしたいですね。将来の大きな節目としては、50歳になる10年後、そして20年後の60歳までにいろいろな目標を達成できればいいと考えています。
――将来の目標を目指してさらに実践的な能力を身につけながら精進してください。本日はありがとうございました。
インタビュー・文:福田 俊之
写真:前田 政昭
〉関連情報
松本充央 webサイト:https://mitsuomatsumotopottery.tumblr.com/
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