独自の染色技法とロック音楽で
着物文化に新風を吹き込む職人技
染色の中でもユニークな「溜描(ためがき)」という独自の技法を生み出して、日本が誇る伝統的な着物文化に斬新な風を吹き込む染色作家の茂木蒼城氏。青春時代はロックミュージシャンに憧れてプロの世界を志したこともあったが、20代後半からは父親から受け継いだ家業の”染色職人”一筋に歩む。富や名声を得ることに頓着せず、ひたすら感性のおもむくままに描いた『蒼城染』の作品には、間違いだらけの和服の常識を打ち破るような奇想天外な異色作が多い。この度、その代表的な作品を集めた写真集『SOJO』を上梓したのを機に、独自の染色技法を貫く自分流の生き方とともに、伝統文化を継承するための心意気などについて語ってもらった。
江戸文化の粋とロックを融合した異色の写真集を出版
――オールカラーの立派な写真集をおつくりになりましたが、ご自身の作品を紹介した本を出版するきっかけはどんなことからですか。
茂木 少し大げさな表現をすれば、ロックミュージシャンの心を染色のさまざまな作品に託す、言ってみれば「私の魂」みたいなものを知っていただきたかったからです。
――着物制作の染色の仕事一筋ではなく、ミュージシャンの経験もあるのですか。
茂木 もうずいぶん昔のことですが、私たちの青春時代には加山雄三さんのような”若大将”に憧れて、グループサウンズの全盛期でした。私もその一人で、気の合う仲間同士でエレキギターを弾いて、歌ったりするのが楽しくてバンド活動をやっていました。たまたまライブに誘った方があの有名なロックバンドの「安全地帯」の玉置浩二さんの元の奥様で、当時、彼女はピアノを弾いていましたが、私はボーカル。そんなことが縁で、レコード会社に、ためしにデモテープを送ったところ、オーディションに合格して、トントン拍子で”プロ”としてデビューすることになり、レコードまで出しました。
――この写真集をめくってみると、「白浪五人男」をイメージするような歌舞伎役者風の丁髷姿の男性が、エレキやキーボートを抱えたり、ドラムを叩いたりと、江戸文化の粋とロックの世界をコラボしたいわゆる”和洋折衷”の実に面白い絵柄の衣装ですね。
茂木 気づかれたかどうかわかれませんが、和服姿のモデルが手に持っているのは、エレキギターをアンプに接続するための赤いシールドケーブルです。それに、本の装丁にもこだわって、サイズは12インチ(313mm×313mm)のLPレコード盤のジャケットと同じ寸法にしました。
父親の背中を見ながら染色の世界へ突き進む
――表紙もユニークですね。江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎の『富嶽三十六景』を連想するような素晴らしいデザインですが、書店に置くよりもレコードショップに並べたら、音楽ファンがうっかり買っちゃうかも (笑)。ところで、 本職の染色との出会いはどんなことからですか。
茂木 もう13年も前に亡くなりましたが、私の父は家業として染色業を営んでいました。父の時代のお得意先には東京・銀座の「世きね」という老舗の呉服屋さんとのお取引が長く、その縁で、お客様から着物や帯の注文を頂いて、それを仕立て上げて、直納していました。つまり、洋裁店で言えば、オートクチュールのような店ということですが、その呉服屋さんは、政界、財界、花柳界など幅広いお客様に愛されていました。生前、父から聞いて記憶に残っている著名人では、たしか、戦後の日本復興に力を尽くされた名宰相の吉田茂さんもいらっしゃったそうです。そうそう、幼少のころの思い出としては銀座の呉服屋さんに仕立てた着物や帯を納品する日が待ち遠しくてしかたなかった。父に連れられて私も一緒によく行きましたが、呉服屋さんのことよりもその帰り道には銀座アスターなどのレストランで美味しい食事をするのが楽しみでしかたなかったことが印象に残っています (笑)。
――茂木さんの少年時代はまさに日本の経済は高度成長期の真っ只中で、当時の銀座のレストランといえば “社用族”の接待がほとんどであり、子どもはなかなか足を踏み入れにくかったと思います。それでもお父さんに連れて行ってもらえたということは、呉服屋さんとの取引関係の実習を含めて家業を継いでもらいたくて、それも修業のつもりだったのではないですか。
茂木 「食べ物で釣る」ことはなかったと思いますが、私も門前の小僧ですから、そのころはとくに染色を継ぐ気持ちがなくても、Tシャツに好きな絵柄を染めたりして、無心で父のお手伝いをしていました。また、ロックバンド活動に熱中したころも、いきなりプロデビューして幸運に恵まれましたが、でも、レコードは余り売れなかったので、一年ほどで見切りをつけて、ミュージシャンの道は大切な楽しみへと変わっていきました。それで自然と染色の方に日々努めるようになっていきました。
――染色を学ぶのは、お父さんの背中を見ていれば自然と身につくものですか。
茂木 そうとも限りませんね。私の場合は、少しの才能と恵まれた環境があり、ごく自然に力を磨くことができたようです。ただ、それでも、デッサンだけは必要ということは強く感じていましたね。それで高校を卒業してから目標を定めて武蔵野美術大学の有名なOBの先生が教えていた専門学校に志願して、4年間デッサンを学びました。絵は多くの人はうまく描けないからと、あきらめてやらないもののようですが、まして染めることに挑む人は極めて少ない。日々いろいろなものを染め込む環境は自分には小さいころからの生活そのものでしたから、私の場合は自然の流れから徐々に染み込んでいったのでしょう。
――環境に恵まれていたことはよくわかりますが、デッサンが得意ならばイラストレーターなどの職業に就くことも可能だと思います。しかし、携わる人間が少ない染色の道を純粋に、しかも弟子も取らずに一人で突き進むことになったのは、何か理由がありますか。
茂木 高校時代から美術館で公募展などのアルバイトをした経験がありましたが、どうもこの世界はコネによる師弟関係や主義主張の違いによる派閥の複雑さなどのネガティブな面が目に焼き付いてしまった。それで、美術界特有の渦中に踏み込みたくはなかったので、父のような一匹狼をめざしました。