秋〈Ⅱ〉
きちこうのはな
あき近う野はなりにけり
白露のおける草葉も色変りゆく 紀友則 古今和歌集 物名
きちこう、桔梗。桔梗はキキョウ科の多年生草本、秋の七草の一つ。秋季、紫の花を付ける。秋が近付いた時、まず想い浮かぶのは、この和歌。古今和歌集巻第十にある物名の一首。先日、訪ねた信州高原でも、すでに一部では紅葉が始まっていることだろう。毎年のことだが、秋は訪れてくるのが早い。あっという間に、秋は自然を染め変えてしまう。秋に咲く、自然の美しい花々、松虫草、桔梗、竜胆の花の色は碧色、薄紫など、涼しさと切なさを誘う色。ちなみに我が家の母方の家紋は、桔梗に一の字だった。だった、と言うのは、彼女の死でこの家紋は絶え、私で識る者は失くなる。近年になって、この家紋が、京都に存在することを識った時、なにか懐かしい想いであった。
今日ご紹介の和菓子二種は、すぎて行く惜しむ秋を楽しむため、京都の菓子匠・末富に注文したもの。
今年は、新しい仕事を増やしたりで仕事を多くしたこともあり、夏休みを無くした。従って、久方振りに祇園会の上洛もせず、菓匠会にも欠席。京の夏の鮎無し、鱧無しとは、淋しい食生活の夏であった。そこで考えたのは、自分への褒美に、菓子創りを楽しむ一計。
山口富蔵氏の著書「京菓子の世界」の、‘百人一首の和菓子’があったのを想い出した。王朝文化の粋として日本人の心を映す、百人一首の和菓子の製作を試みてきた氏に、依頼した一点は左京大夫 藤原顕輔、
秋風に たなびく雲の絶え間より
もれ出づる月の影のさやけさ
他の一点は、現代和歌の佐々木信綱氏の大和を歌う代表作、
ゆく秋の 大和の國の薬師寺の
塔の上なる一ひらの雲
をモチーフに選んだ。
奈良西の京の薬師寺東塔は、天平二年の建立になる古塔。その姿は「凍れる音楽」とたたえられた。庭には白い萩の花が。見上げていると、塔の先端の雲の辺りから、かすかに天上の音楽が聴えてくる。目をこらして見ると、何やら、淡く天女の舞う姿が見えてくる日もある。
前者は、柔らかく白い薄い皮のモチ。上面の淡い焼き色を、一条の月光が分けて走る。
後者はこなしの大空の上に、白く薄い雲が浮かぶ情景。
中味に両者共、小豆のこし餡。古典的で深い味わいの小豆の餡こそ、菓子の心に調和して佳味を引き立てた。
奈良の寺について語る時、どうしても、一番先に触れねばならぬ寺があった。奈良市北部法蓮町にある真言律宗の不退寺(業平寺)。9世紀始めに、平城天皇が譲位後に営んだ仮殿を847年(承和14年)に孫の業平が寺に改めたのが始めという。本尊は藤原中期の不動明王や、業平の作といわれる聖観音像など。何が何でも、まっさきに彼の寺を持ち出す由縁は、シリーズ最初の話題に、和泉式部を登場させた理由と変らない。当代一の美男の奔放な恋愛生活は、情熱的な数々の和歌を生み、歌人としても高い評価を残した。和泉式部の数々の名歌も、多くの恋の遍歴なくしては有り得なかっただろうし、いずれもこの上なく素晴らしい人生だったに違いない。
寺の地理的背景には、近くに聖武天皇陵、光明皇后陵の存在する地域なのだが、きわめて自然に調和した寺のたたずまいの全てが素晴らしい。庭内の樹々の大きさ、種類は揃わず自然に育ち枝をのばしている感じ。蓮池の蓮は繁茂し放題、それぞれが開花し、各々が結実を果たしてきた感。夏場には、時に小蛇が水面を渡ったり。そして秋が庭中を覆うと、庭中いたるところから放たれる金木犀の香りの競演、庭のいたるところに咲く秋桜も、花のついた枝を伸ばし放題で風に揺れる。この地でも、自然の持つ秋への季節変化の対応の速さに驚く。特に池周辺の変り様は早い。池上の物は全て枯れ、水の透明度は急速に進む。水底に堆積した枯れ葉の一枚一枚が鮮明に視える。
昔、感動したスーパーリアリズムのアンドリュー・ワイエスの絵画、水底の落葉を想い浮かべる。今、その水面には蒼い空と、ゆれるコスモスの影が浮かんで。
この頃になると、人の訪れの少なくなった寺の庭では、エンマコオロギの大合唱の場となる。夜鳴いていたコオロギ達も、夜を昼に継ぎ、少しでも多くと鳴く声が盛んになる。彼等にとって明日も、次のシーズンもない。間もなく死に絶える者達の美しく、切ない自分の為の挽歌。毎年、ここだけではなく、あちらこちらに彼等の歌を聴きに赴いて来た。京都常照皇寺の駐車場の奥、信州穂高碌山美術館のかたわらを走る鉄道の土手など、人目のない、こんな所で彼等は、彼等の最後の歌を唱っているのだった。
しかし、考えてみると、こちらにもこんな暇は無くなりつつあった。水底の水を視ていて、何時になったら心が澄むのかと想うのだったら、人生の未だに見果てぬ夢からさめなければ。
水のごと 心澄む日よ 秋桜(*) 原子順 *秋桜はコスモス

1937年生まれ。慶大経済学部卒、総合商社、大手石油会社などを経てフリージャーナリストとして独立。国際政治・経済問題から芸術文化、和菓子の研究まで豊富な知識と深い見識で執筆活動を続けている。