後白河法皇と六条長講堂御所
八十八夜に近づく頃、連夜朧月を仰いだ。
月を眺めていると、憶い出すのは、ずっと昔に教わった大正時代の唱歌。
月はかすむ春の夜や 岸辺の桜ほころび・・・・
数か月前から、平家物語の小原御幸の頃に長講堂様訪問を考えていたので、まずは準備を整えた。(菓子作りの項)
後白河法皇が、この地を御所として使用されたのは、法住寺の後、60才代の6~7年間。念持仏或いは臨終仏と呼ばれる丈六の阿弥陀様と観音勢至菩薩の三尊(院尊作)が安置されており、法皇の持仏堂として開基された。法華長講彌陀三昧堂」が正式の名称。この辺りの歴史については「源平争乱と平家物語」上横手雅敬著(角川選書 平成13年)など詳しくて面白い。後白河法皇の院政の時代は前期の法住寺殿時代と後期の六条殿時代に区分、後半は建久三年(1193年)に亡くなられ、蓮華王院の東の法華堂に葬られた。この間の政務、荘園経営、廻向など興味深いが、これは言及をはぶき、当時から寺に伝わる重要文化財など、更にこの後世からの貴重な拓本などの文物を拝見する。御本人様の御尊像も重要文化財で毎年一日、四月十三日法皇忌に公開されている。
さて、ここで、ここにしか絶対に無い宝物を拝見させていただく。それは法皇様御自身の筆になる過去現在牒。この書物には行真という法皇様の僧名で署名が行われている。仏、菩薩に始まり、神武天皇より安徳天皇いたる歴代の天皇、平清盛、源頼朝、義行(義経)などの源平の武士及び法皇と因縁のある人々の名前が親書されている。更に我々が見て驚くのは遊女や役者の名が、以上の人々の名と同列に書き並べられている事実。正に驚きであった。前代未聞、奇書というべきか。一方、この時代に源平の合戦の結着はついたものの、未だ義経は生存しており、別の良経=九条良経=藤原良経の存在をおもんばかって、身分の低い源を義行と表記したものだろう。この頃、源義経は壇の浦に勝利し、法王は直接彼に検非違使の称号を叙すが、これをねたんだ梶原景時、義兄頼朝に追われた義経は奥州で自害、酒びたしの首になって鎌倉にもどる破目に。(仮に筆者が義経だったら、あの時、腰越を押し切って鎌倉に攻め入り、頼朝を殺して自分が将軍になったものを。)
小原御幸
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり 娑羅雙樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす驕れる人も 久しからず ただ春の夜の夢の如し・・・・と、まあ静かに始まる平家物語。しかし、内容は阿鼻叫喚の殺戮の物語。むごたらしい皆殺しのストーリーであった。その最後の章が、小原御幸(灌頂巻)。後白河法皇が、此所長講堂を発たれ、大原寂光院に、今は尼となった建礼門院を訪ねられるシーン。
時は文治二年(1186年)の春卯月。まさにご当地長講堂を起点に大原の里を訪ねられた。かなりの人数の供を連れ、多分牛車か輿でご出発、終りには長講堂にもどられた。現地で建礼門院に会われ、和歌を残された。
池水にみぎわの桜ちりしきて 波の花こそ さかりなりけれ
水際の桜も、近年焼失した建物も全ては更新され、昔と変らぬたたずまいを見せている。八百年忌の折など赤間神宮側から、特別崇敬人として参列したこともあったが、歴史を身近にすると、うつろう身という無常観が我がものになる。
菓子作りの項
お供えに和菓子を
阿弥陀様と法皇様に和菓子を用意した。京の匠にお願いしたのは古い和歌にちなむ菓子。
春すぎて夏来たるらし 白妙の衣ほしたり 天の香具山
持統天皇 万葉集
場所は奈良、大和三山の一、緑に萌える山裾に白い衣、干されている白い衣が夏が来たのを感じさせる。菓子の銘は香具山。菓子材料はこなし。餡に薄力粉を合わせて練り上げ熱を加える京菓子材料。もっちりとした口触りで色鮮やかに仕上る。白や薄みどりが、品良く整った。
持統天皇は女帝。苦難の人生だったが政を良くし、遷都も成功裏に。旅や文学を好まれたと言う。里中満智子さん作のヒロインとしても人気があった。この和歌は、百人一首では
春過ぎて夏来にけらし 白妙の衣ほすてふ 天の香具山
とされているが、和歌としては万葉の方が秀出ている。

1937年生まれ。慶大経済学部卒、総合商社、大手石油会社などを経てフリージャーナリストとして独立。国際政治・経済問題から芸術文化、和菓子の研究まで豊富な知識と深い見識で執筆活動を続けている。