私をじっと見ていた黒猫、
記憶の中へ消えていった青い影
顧問をしている会社に立寄った帰り、“久々に歩いてみよう”と、少し遠いが京浜急行の駅まで歩くことにした。
夕焼けが、ビルの壁を赤く染めている。
大きな橋の袂まで来ると、小柄で痩せた青年が一人、道行く人に無言でチラシを配っていた。
何気なく受け取って読むと、飲食店の営業案内だった。
「BAR黒猫」
“どっかにありそうな名前だね・・・・”
そう思った時、青年が話しかけてきた。
“ねぇ~オジサン、そのお店、僕の店なンだ。・・・・寄ってくんない?”
息子も娘も結婚し、家を出て行った。私のなかに、ポカンと空洞ができたような時期だった・・・・。
子育ては大変だったが、育ててみれば、あっという間に飛び去ってゆく。
“幸せに暮らしてくれればいいが・・”
だからなのか・・・・?
素直そうな青年の、ピュアな笑顔が心にしみた。
気持が動いた。
“チョっと寄って・・・・”と答えるまえに、“こっちだヨ!”青年は歩き出していた。
あとを追うようについてゆくと、スナックや居酒屋が雑然と立ち並ぶ飲食街に出た。あっ、ここ日ノ出町の「野毛」か・・・・?
運河沿いの、寂れた大きなビル。
夕暮れの街は静まり返り、なが~い影が運河に伸びている。
ビルの地下に、その店はあった。
“お客さん、ここだよ!”
古い袖看板に、「BAR黒猫」とある。
いつの間にか、私の呼び名は“オジサン”から、“お客さん”に変わっていた。
店内に入ると、カウンターの上に、黒い猫が一匹。
じっと私を見ている。
“「黒猫」って、この子のことかい?”
青年はそれには答えず、“ビールにする・・・・?”と聞いてくる。
お通しなのか、乾き物が一皿。
“ゴメンね、チョッと八百屋さんに行ってくるけど、お客さん、すぐ戻るから・・・・”青年は急いで出て行った。
バラード風なジャズが、ゆっくり流れている。
John Coltrane(ジョン・コルトレーン)かな・・・・。
青年はいつまでも帰って来ない。
私を見ていた黒い猫が、大きなあくびをした。赤い舌がチロリと見えた。気味が悪くなってきた。
千円札一枚をグラスの底に置いて、店を出た。
外はもうすっかり夜の闇に包まれている。
そのまま駅に出て、帰路についた。
数日後、“あの店、どうしたかな・・・・”、気になって店を訪ねた。
運河沿いの寂れた雑居ビル。
地下に入り、確かここあたり・・・・と店を捜すと、店の扉に「貸店舗」の張り紙。
同じビルの一階にある小料理屋に入り、女将にその店のことを聞いてみた。
「お客さん、あの店、もう二年前からやってないよ。その猫に、とりつかれたンじゃないの・・・・?」
小太りな女将が、大きな口を開けて、ケラケラと乾いた笑いを響かせた。
勘定をすませて帰ろうとして、ビルの地下入り口に目がいった。
遠くで・・・・猫の鳴き声がしたような気がした。
夢を・・・・現実と混同してしまったのだろうか。今ではもう確かめようがない。
*横浜日ノ出町:「野毛の飲食街」として市民に親しまれている場所で、
焼肉、小料理、居酒屋、小さな個人経営のBarなどが、約200店近く密集している横浜の飲食店街
文・高桑 隆
1950年、北海道生まれ。神奈川大学経済学部卒、大手外食産業勤務を経て、1999年、(有)日本フードサービスブレインを設立。飲食店経営指導専門、飲食店の売上向上対策、農家レストラン開業指導、具体的で効果的な指導を実施。服部栄養専門学校、桜美林大学にて教鞭も振う。この分野では、経験豊富なコンサルタント。